……麻績子は目覚めた。が、ベッドや布団の上ではない。体の下は埃と煤に汚れた硬い木の床だ。見まわすとあたりは薄暗く、しかもところかまわず蜘蛛の巣が垂れさがっている。廃屋? そもそもどうしてこんなところに……そこでようやくぼんやりと思い出した。そうだ、藤助たちと一緒に鎌倉の六合廷神社に初詣がてら近在地域の取材に訪れたが、そこでとんでもない有為転変に巻き込まれたのだった……記憶の最後にあるのは、あの広壮な洋館──葉原邸だ。あそこでさまざまな妖怪変化に襲われ、挙句に自分だけ攫われたのだった。その攫った妖怪というのは……?
 ……鵺だ! 果たせるかなその鵺が目の前数メートルのところにいた。数メートル先……バーカウンターのようにものの上で胡坐をかいている。人間とはちがう角度に曲がった獣のごとき後ろ肢を人間のごとく巧みに組んで。そして前肢は──あの前肢が長くのびて麻績子の体に巻きつき攫ったのだ。が今は相応の短さに戻り、胸の前で組んでいる──こちらもあたかも人間のごとくに。
 両肩の上にわずかに覗いているのは、今は折りたたまれている翼にちがいない。それがあるから獲物を一気に遠くへ運び去ることができるわけだ。蝙蝠のような飛膜ではなくて、羽毛の生えた鳥の翼に似ているが……説話などで語られたり描かれたりする鵺にあんな翼はあっただろうか? でも〈ぬえ〉の漢字の部首は鳥だし、事実鳥の妖怪とする説もあったような……
 だがそれよりもいちばん奇怪なのはやはり顔だ。たしかに日本猿に似ていると言えなくもないが……しかしまばたきしない目といい鱗めいた皮膚といい、見ようによっては爬虫類のようでもあり、あるいはまた口の部分が妙に飛び出している上に角質めき、それこそ鳥の嘴を思わせもする。あるいはさらによく目を凝らせば、細かいところで地球生物にはありえない特徴が垣間見えるようで──どこがそうと意識的には特定できないにもかかわらず──ひょっとすると人間の認識力では完全には把握することの叶わない、この世ならぬ相貌であるのかもしれない。あたかも神の名が──邪神も含め──人間の表現力では発音も表記も正確にはできないと言われているのと同断であるごとくに。しかしそうである一方で──
 ──全体の印象からいちばん連想されるものはなぜか人間なのだ。
 すると麻績子がそう思ったまさにそのとき、さながら心理を読んだかのように鵺が話しかけてきた──人間の言葉、それも紛れもなき流暢な日本語で。
「やっと目が覚めたようだな、多海麻績子。ここがどこか判るか?」
 声の質にはなんともゾッとさせる曰く言いがたい淫猥な調子が濃くあるが、言葉は奇妙なほどはっきりと聞きとれる。ここがどこかと問われて、麻績子はこの場をあらためて見まわすべく、体を起こそうとした──が、なんとか起こせはするものの万全に思いどおりにはいかない。今さらに気づいてみると──
 ──両手をロープで縛られているのだった。左右の手首をくっつけ合わせて幾重にもぐるぐる巻きにされた上に、これまた煤と油脂めいた汚れにまみれたロープの一方の端がゆるやかに上へとのび、天上の暗がりに消えている。理不尽に攫われてきたのだから逃げられないよう拘束されているのは当然と言えるが、ロープが手近なところに結びつけられているのではなく、天井のどこかに繋がれているらしいのが不安を誘う……
 ともあれ、問われるまでもなくこの場所がどこかなのは気になるから、薄闇と蜘蛛の巣とうっすらとただよう埃の中へ視線をめぐらすと、どうやら普通の部屋ではなくて、なにかしらの店の内部、もっと具体的に言えば、たとえば謂わゆるライブハウスのようなところかと思える。と言うのは、麻績子が囚われている一段高くなったところがステージで、真向いの奥で鵺が坐りこんでいるカウンターが飲食物を提供するところ──事実カウンターの背後の棚には少ないながら酒瓶らしきものが埃をかぶって並んでいる──そしてその両方に挟まれた真ん中の広いスペースでは、脚が折れたり板が割れたりしているテーブルや、錆びて曲がったパイプ椅子などが散在しており、それこそがこの場をライブハウスかと思わせるいちばんの要素になっている。

 そう思ったとき、もやもやとしていた記憶が麻績子の中でカチリと何かに嵌まった。

 ここはほかでもない……H・P・ラヴクラフトを記念する邪神忌と聖誕祭が毎年開かれていた場所──阿佐ヶ谷ロフトだ! が……あのロフトがなぜこんな廃屋に?

(※手記はここで途切れていた…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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